2017年4月27日に逝去した第50代横綱佐田の山を偲び、氏が引退後に日本相撲協会理事長の要職に就いていた平成5年に『別冊NHKウイークリーステラ大相撲特集』にて連載していた自叙伝を抜粋する。
 なお、基本的に原文のままとするため、本文における人物名、四股名、役職は当時のものであり、現在の名称とは異なる。

出羽海智敬自伝(第一回)
日本相撲協会理事長・元横綱佐田の山
出羽海智敬 題字・筆者
協力・スポーツキャスター 向坂松彦

 私は昭和三十年の暮れに、高校三年在学中、誘われるままに出羽海部屋に入門して力士となった。そのころの出羽海部屋には弟子が百人近くもおり、無口でおとなしかった私など全く目立つ方ではなかったし、また注目されるような存在とはいえなかった。
 そんな私が、それほど辛いとか苦しいとかいうこともなく、弱音を吐くこともなしに修行時代を過ごし、さほどスピード出世ではなかったものの、まずまず順調に出世出来たのは、よき師匠、先輩に恵まれたお陰であった。
 入幕三場所目には平幕優勝して三役に進み、このころから多少欲も出てきた。よきライバルの刺激もあって関脇で二度目の優勝をしていくらか自信もつき、大関から更に力士最高の横綱に上がれたのは大変幸運であったというほかない。
 当時は柏鵬の陰に隠れた存在で、決して強い横綱とはいえなかったし、相撲も不細工な方だったが、六回の優勝を果たすことが出来たのは極めて運がよかったといえよう。
 昭和四十三年引退後は岳父武蔵川親方の後名門出羽海を継ぐことになり、春日野、二子山と二人の名理事長のもとで協会の仕事を勉強し、二人の名理事長の後を受けてこの大相撲人気の絶頂期に理事長に推されたことは身に余る光栄と思っている。しかしこういう時期に理事長になったということは極めて責任重大であり、これからもこの向坂松彦満月の状態を少しでも長く続けるように、そしてまた日本の伝統文化である大相撲のよき伝統を正しく継承し、より一層発展させて行くという重責を果たすよう努力しなければならないと考えている。
 私は現役のころも決して一流の強豪横綱ではなかったし、理事長となってからもわずか一年余り、何らの業績を挙げたとはいえない。そんな私にとって、自らの半生について自慢出来るようなことはもとより、取り立てて語るようなこともないわけだが、編集者のたっての勧めなので、あえて筆を執ることにした。思いつくままに半生の歩みを振り返り、ありのままの私という人間を知っていただく一助にもなればと思う次第である。

(一)

 私の生まれたのは長崎県南松浦郡有川町有川である。有川町は五島列島の中通島東部にある漁港だ。
五島列島は長崎県の西部に縦長に連なる列島の総称で、五島とはいっても実際の島の数は二、三百はあり、そのうち入が住んでいる島だけでも四、五十ぐらいはあるだろう。列島中最大の島は、南にある福江島で、ここには五島唯一の市である福江市がある。
 列島全体の人口は戦前は二十万を超えていたといわれるが、戦後になってからは東京とか大阪とか都会へ出る若者が多く、過疎化が進行し、現在は十万を切っている。
 島の気候は概して温暖で、春と秋が長く、冬が短い。夏の暑さも東京などと比べるとさほどではない。冬の寒さは結構厳しく、季節風が強く吹き、海が荒れることも多いが、寒い時期はそれほど長く続かない。雪が降ることもあるが、山の上以外は余り積ることはなく、たまに霜が降ったりすると、鶏が喜んでしばらくそれと分かるまで霜をついばんだりしている光景も見られる。
 福江市をはじめ、有川町、余良尾町などの港はそれぞれ長崎とか佐世保と定期船で結ばれており、島どうしの連絡は不便で、人の動きも経済の結び付きの面でもそれぞれの町が本土と直結している。
 我が中通島は上五島地区に属し、列島の中ごろから北の方に位する細長い凹凸の多い島で、面積は六〇平方キロ足らず、東北部の有川と南部の奈良尾が港町となっている。奈良尾町は戦前双葉山時代に活躍した出羽海部屋の先輩大関五ツ島関の出身地だが、中通島は南北に細長いので、有川から奈良尾までは同じ島の中でも一日歩いても行けないほど離れている。
 有川町は上五島の玄関口といわれ、町の中心部の有川郷は有川湾に臨み、古くは捕鯨で栄え、現在はブリの定置網漁などが行われている。有川港は定期船で佐世保、長崎と結ばれており、約二時間で行くことができる。数年前から八人乗りの飛行機も大村空港と往復するようになった。
 有川町の蛤地区には海水浴場があり、中野地区にはキリシタン教会がある。北部の海岸から先史時代の遺跡が発掘されており、リアス式海岸の一部は西海(さいかい)国立公園に指定されている景勝の地である。しかし観光ということでいえば、五島列島ではやはり大村からジェット機の便もあり、長崎港からフェリーが就航している福江の方が中心で、有川は観光というより魚釣り客の多い町である。
 町の人口は、私が町を出た昭和三十年代の初めには一万二千人以上であったが、今日は約入千五百人ぐらいに減っている。
 町が鯨で栄えたのは江戸時代から明治時代にかけてのことで、有川の町には捕鯨の伝統があり、鯨を捕った跡とか、油を絞った所とかが残っていた。そして祭の時の歌にも、鯨捕りの歌とか、鯨の油絞りの歌とかが今でも残っている。
 町では昔は二十隻ぐらいの船団を組んで、半年間も南極に捕鯨に出かけていた。捕鯨の砲手になるには試験もかなり難しかったというが、砲手は結構高給取りで、多額の現金収入になるのが何よりも魅力だったらしい。一航海終えて帰って来ると、土産をたくさん抱えて、現金もたんまり持って来て、半年の間夫や父親の留守に耐えた家族を喜ばせた。
 私も子供のころ捕鯨に出ていた人の話を聞くのが楽しみだった。航海に出て暴風圏内に入ったら、船の中で十日も二十日も揺られて、そこで大抵の人が参ってしまい、食べ物を全部吐いて、吐くものがなくなって血を吐いたこととか、暴風が収まるころには皆すっかり船に強くなること、途中オーストラリアに寄ったとか、水を補給するのにどこそこに寄港したとか、南極に近づくとかえって海が穏やかになることとか、海の男のロマンに好奇心をそそられ、心を躍らせたものだ。うちの親父や次兄も、私が生まれる前には鯨捕りに行っていたということだし、私も子供のころは格好いいなァと砲手にあこがれていた。捕鯨が禁止になった時には有川町では失業した者も多かった。

(二)

 私は昭和十三年二月十八日、有川町有川に、父佐々田松三郎、母ヨシの四男として生まれた。父の松三郎は大工の棟梁で、なかなか腕が立つという評判だったが、大変酒好きで、まるで酒を飲むために働いたような男だった。母はその酒飲みの夫によく仕える昔風の日本の女性の典型のような人だった。
 父は町の学校を建てたり、家を建てたりしたが、職人肌で、仕事は好きで腕もいい方だったが、算盤の方は全く駄目。この仕事はやりがいがある、どうしてもその仕事がしたいと思うと、法外な値で安く請け負ってしまう。それでせっかくいい仕事をしても損をして、いつも母親は借金取りの断りばかり。「済みません。もうちょっと待ってください」と母親が言っていたのを子供心によく覚えている。
 親父はいわゆる宵越しの金は持たない方で、たまにまとまってお金が入ると大きな家を買って住む、貧乏になるとそこを売って小さな家に移ってしまう。何でも家を四軒か五軒移ったそうで、私が知っているだけでも三軒はある。儲かるとすぐ昔の庄屋が住んでいたという間数の多い立派な家を買って、威張って酒を飲んでいた。失敗するとその家を売って今度は小さいところへ引っ越して、また儲けたら違うところに行ったりして、皆がブツブツ言っても、親父がやってることだから面と向かって文句は言えない。金を貯める才覚などは全くない人だった。
 家には家族のほかに内弟子が二、三人居て、あとは通いの大工が数人、それに左官や鳶、畳屋などが年中ゴタゴタと出入りしていた。親父はそれらの人を使って仕事をしていたのだが、もちろん自分も大工仕事をするばかりでなく、設計もする。設計施工だけでなく材料の見立てまでやる。自分で山に行って松でも杉でも木を選んで、人夫を使って伐採してもらって、更に枝落としをしてもらって引っ張って来る。それを乾かして木挽きに一本一本の柱を作らせ、一枚一枚切って板を作らせる。田舎のことだから電動工具はまだないので、夕方から夜十二時まで、刃物を研いで、鉋から鋸も鑛をかけたりもする。大工というのは仕事が終わってからの道具の手入れも大変だった。親父は大酒飲みではあったが、仕事は早い。うまいということで大分評判はよく、五島の左甚五郎などと言われて鼻高々だった。
 酒は本当によく飲んだ。だからおふくろには迷惑の掛けっ放しで、おふくろはいつも泣かされていた。
 田舎では必ず時間通りに一家そろって御飯を食べる。だから飯時に居ない者は後で食わせてくれない。家族と母親は一緒で、親父は違うテーブルで、一人でしゃべりもしないで、グーッと焼酎なんか飲んでいる。こっちで何かしゃべると、「うるせえ」と横に居る人はぶん殴られるから皆離れた所に座る。
 そして、酒がなくなると「酒っ!」、母親は「はいはい、お待たせしました」とか言って、酒と漁師からもらった魚を切って出す。親父はワサビ代わりに胡椒を醤油の中に入れて、うまそうに魚を食い、キューっと焼酎を飲んで一人で威張っている。そうやって毎晩飲んでいた。
 仕事を請け負って建築に掛かり、建物が完成するころに焼酎の一斗入りか二斗入りの甕が十個ぐらい空になる。一日の仕事が終わると、「おい、飲んでいけ」と言うことで職人たちが皆でグーッと飲んで帰る。だから仕事が長期にわたると、酒の甕の数も増えていく。簡単な仕事の時は五、六個で済むけれど、工事が大きい時なんかは飯場に甕がゴロゴロ転がっていた。
 男尊女卑の風習が強い九州地方のせいかもしれないが、母のヨシは本当によく父に仕えていた。まあ時代もそんな時代だったのだろう。母は苦労とも思わなかったようだ。特に大工の世界たから、母が風呂に入るのは使用人も皆入った後で十二時過ぎになる。それから夜なべ仕事に縫い物なんかしている。私は子供のころ母親というのは寝ないのかと思っていた。
 朝は自分が六時ごろ起きると、もう朝御飯が出来ているのだから、よく出来たもんだと思う。それで親父に叱り飛ばされてばかりいる。それでも次々と子供が生まれたんだから、仲は良かったのだろう。それは我が家ばかりでなく、どこの家でも昔の人はそうだった。親父には一家を支えていかなくては、という考えはあったのだろう。天沢と暴風雨とか、何かの時は自分が命をかけても家族を守るんだと気持は強かったに違いない。当時私はそうは思わなかったけど、今振り返るとそんな気がする。その代わり親父は威張っている。母親も親父を威張らせておいた。
 父親が威張っていて怖い分だけ母親は優しかった。私が力士になってからも、母親はいいにつけ、悪いにつけ心配ばかりしていた。新弟子時代はさぞ苦労してるだろうと心配する。ちょっと上に行くと、きちっとしていかなくてはいけないとか、けががないようにとか、気遣いばかりしていた。

(三)

 私は上から女、男、男、男、男、男の六人きょうだいの五番目で、きょうだいは皆三つから四つ間が開いている。それで姉とは二十以上、長兄とも十七、八歳離れている。
 姉は八重といい、私が物心づいたころはもう嫁に行って原姓となっていた。長兄は学といい、今もう七十歳になるが元気でいる。兵隊に行った経験もあるが、父の仕事を継いで郷里で佐々田建設を経営している。次兄は力成(りきせい)という、名前どおり私より立派な体つきをしており、餓鬼大将だった。若い時は捕鯨船に乗っていたが、現在は兄とは別に佐々田組という建設会社をやっている。三男は泰吾といい、福岡に出て北洋漁業に勤務していたが、先年亡くなった。
 そして四男が私、本名佐々田晋松である。私の下の五男は勝利といい、自宅は埼玉県の戸田の方で、やっぱり建設関係の仕事をやっている。
 私の名の晋松について、まだ私が取的だったころ大村昆の昆松というのがはやって、丁稚の名だとよく兄弟子や同僚からからかわれたものであるが、私は「いや、これは立派な名前で、気に入ってるんだ」と、その由来を説明したことがある。
 私が生まれたちょうどそのころ、親父が頼まれて山の上に普賢菩薩を納める観音堂を造営した。これは以前「愛の観音堂」ということで、ある新聞に書いたことがあるのだが、晋の字がその普賢菩薩の普の字に近いということと、父が幕末の志士高杉晋作を尊敬していたことから晋の字を取り、それに父の名の松三郎から松を取って晋松としたということだ。
 私は子供のころ体はちょっと人より大きかったけれど、無口で、おとなしくて目立たない方だった。我が家のすぐ裏は海、家の中に居てもいつもジャポン、ジャポンと波の音が聞こえた。台風の時など恐ろしいくらいだった。うちは漁師ではなかったが、海に潜ってアワビやサザエを獲ったり、鈷で魚を突いたり、海に出て釣りもよくやっていた。自分で舟を造って、友達と競争したり、浜ノ小島とか源五郎島とか呼ばれる周辺の小さい島によく行ったものだ。夏休みには勉強なんかしないで、毎日海で遊んでいた。
 私が本当に勉強したのは、小学校二年生ごろからで、親は勉強しろとは言わないし、それまではろくに字も読めなかった。私が余り勉強しないものだから、母親に「やっぱり少しは勉強した方がいいよ」と言われて、机に向かうようになった。
 私にとって父親はただ酒ばかり飲んでいて怖い存在だったが、それでも親父の後をくっ付いてよく工事現場に行っていた。小学生のころ行った飯場は家から四キロぐらいだった。私は歩くのが速いから、親父の後ろからバタバタと付いて行って、そのまま飯場に泊って、仕事を手伝ったりした。そして夜の道を家に帰って来る時などは、いつも親父と一緒に帰って来た。
怖い親父だったが、今考えるとやっぱり優しかったのかもしれない。私は一回だけ親父におぶってもらったことがある。その時父親の背中とはこんなものかなと思った。
 小学生の時に夕方、大きなトンボを捕まえて来た。珍しく大きなトンボで、それに糸をつけて、トンボに任せて崖の上を上がったりして行った。そうしたら石垣から落ちた。ニメートル半ぐらいもあっただろうか、その石垣から転げ落ちて、パッと見たら足がパカッと裂けて、手がゴリッと入る。今でもまだこの時の傷跡が残っている。それでギャーっと泣いた。すると親父が飛んで来て、「この馬鹿たれ」と言って、傷口に応急に何か巻いてくれた。そのまま親父の背に担がれて病院に連れて行かれた。
 病院では押さえつけられて、麻酔も何もなしに傷口を縫われた。今だったら二十針ぐらい縫うほどの傷だったのを、たった三針で縫った。
 その後じっとしているように言われていたのにすぐ動き出したら、またグツグツ切れたり、化膿したりして、今度はもう縫いようがない。医者にもあまりいい薬もなかったんだろう。治るのに一年以上もかかった。
 ある晩私が寝てると、何か足元でもそもそしている。もう十二時過ぎて電気も消えていたのだが、母親が蝋燭をつけて、私の寝巻きの裾をめくっている。じっとして寝たふりをしていたら、庭から取ってきたアロエの汁を傷口に塗っていた。アロエは医者要らずというくらい傷に効くらしいが、あの時はヘエーッと思って、びっくりした。
 この時の足のけがで、私は親父とおふくろの優しさに心を打たれたことは今もって忘れられない。