出羽海智敬自伝(第一回)
日本相撲協会理事長・元横綱佐田の山
出羽海智敬 題字・筆者
協力・スポーツキャスター 向坂松彦

(十三)

 私が新大関で迎えた昭和三十七年夏場所、栃ノ海さんが十四勝一敗で優勝、栃光さんも十三勝二敗の好成績で、場所後二人そろって大関に昇進した。この場所私も十三番勝ち、けいこ仲間の三人で優勝を争ったのであった。栃ノ海さん、栃光さんの大関昇進は、けいこ場でお互いによきライバルとして競い合った仲だけに、私にとっても本当にうれしかった。
 私の方ではそれほど張り合う気はなかったのだけれど、前にも書いたように栃ノ海さんはライバル意識が強く、けいこ場でも負けると相当カッカしたものだ。栃光さんはその中間。体でガンガンやってくれた。ぶつかりげいこでは随分胸を出してもらった。栃光関は厚いいい胸をしていたので、バーンと思い切って当たることができた。三番げいこでも、よくけいこをつけてもらった。
 ある時のこと、栃光関と三十番もけいこしただろうか、私の方から、「ありがとうございました」と終わったら、けいこのことではめったにどなったことのないおやじにどなられた。
「お前は若いんじゃないか。何でお前からやめるんだ。今後一切お前の方から下がるな」
 と。
 その後こっちからは「ありがとうございました」と言わないで行くと、あの人は先輩だから「もういい、やめよう」と気を遣ってくれればいいのだけれど、絶対に「よし」とは言わない。こっちは怒られたばかりだから自分からは言い出せないし、一時間以上もけいこしていなければならない。幾らやっても栃光関は嫌がらない。それぐらいあの人はスタミナがあった。
 最初のころ私は栃光関には全く勝てなかった。そのうち五分になったけれど、本当にあの人にはよくけいこをつけてもらったという感じを持っているし、今もいい思い出になっている。
 栃光関も出世は早く、十両昇進も入幕も随分早かった。その後じんま疹かなにかで苦しみ、大関に上がるのは遅かったけれど、三人で競って、そして三人とも大関に上がれたのだから、本当によかったと思う。
 私は大関に上がった当座は無我夢中だった。新大関で十三番勝ち、一場所おいてまた十三勝したが、その場所は大鵬関と決定戦となって敗れた。その後不調に陥り、翌年の大阪では腰を痛めて途中休場して入院した。
 大関の三場所目に決定戦で大鵬関に敗れた私だが、大体大型力士には分が悪く、特に大鵬さんは嫌だった。善戦しながらも勝てない相撲が随分あった。柏戸さんは右の相四つだったから、割りと突っ張り合いになると私の方がよかった。ただがっぷり四つになると、どうしても体負けした。
 柏戸さんは最初はのど輪でバーッと出て行く相撲だったが、後に前みつをつかんで走るようになった。立ち腰のまま一気に出るので両者とも一緒に土俵下へ転んで行くのだからけがは多かった。私も一度みぞおちをけがさせられたことがある。
 豊山さんとは初顔の時は勝ったが、あとはずっと負けているのではなかったか。最後の方はちょっと勝ったけれど、やっぱりああいう背の高い大型力士は苦手だった。
 学生横綱から入門し、トントン拍子で上がって来た豊山さんに対して、初顔の時、「こっちはプロで何年もやっているんだ。学生出身には負けられないぞ」
 という意識はあった。入門の時、豊山さんが出羽海部屋に入るという話もあったが、そんなことがしこりになっていたということは全くない。ただ最初にインタビューでこう答えたのは今でも覚えている。
「そのうちあの人が勝つだろう。わしなんかよりも素質も何でも上だし、すぐ追い越して行って大関、横綱になるだろうけれども、最初の一番はどうしても勝ちたい。死力を尽くしてやるぞ」  と。それに尾ひれがついて、
「負けたら、ちょんまげ切って百姓になる」
 とか報道された。特に弁解はしなかったけれど、私はそんなことを言った覚えはない。
 後になって二人でその話は何回かして、
「いやー、お互いだ」
 とか笑ったものだ。
 あの人が腰を痛めなかったら、いい横綱になっていたはずだったが……。あれだけの体はちょっとないし、力も強かった。
 苦手といえば、私は大関になって間もないころ、天津風に二連敗している。私はああいうアンコ型で腰が重いタイプの力士は好きではない。パパーッと来た方が取りやすい。宇多川なんかも手こずった相手だ。
 やっぱり突き押し相撲は腰の重い者を嫌がる傾向がある。顔でも張って行けばいいのかもしれないが、私の場合ははずで押して相手を天井に上げるような形で腰を伸ばすように攻める相撲だ。ところが相手の腰が重いとなかなか押し上げることが出来ない。
 相撲は相手の腰を伸ばすか、バランスを崩すかの競技だ。バランスを崩すのは投げで、突き押しや寄りとかつりとかいうのは相手の腰を伸ばすわけである。

(十四)

 昭和三十八年四月二十七日、師匠武蔵川(当時は出羽海)親方の長女市川恵津子と結婚した。
 最初はまだ大関に上がる前のことだったか、常陸山会のころから部屋の後援会長をしていた小沢孝吉さんに浜町の料亭に一対一で呼ばれた。小沢さんは溜会の会員で長年相撲を見ていた人だったが、その席で小沢さんに、
「武蔵川さんのところに娘が居る。年齢的に関取とちょうどいいんじゃないかと思うが、関取はもうだれか約束した人が居るのか」
 と聞かれた。
「いえ、居ません」
 と答えると、
「それではどうだ」
 と言う。
「いや、ちょっと考えさせてください。親とも相談しなければいけないし、そういう話なら、どっちみち養子ということになるでしょうが、九州人ならそんなことはおやじも許可しないだろうし、私自身もあまりよしとしないので……」
 と保留させてもらい、その場で返事はしなかった。
 小沢さんも、
「いや、それでいいんだ。約束している人が居るか、居ないかを聞きたかった。それだけの打診だから、今すぐ返事しなくてもいい。何だったらその方向で考えて、親とも相談してみたらどうだろうか」
 ということで、その場は終わった。
 この話に関しては、武蔵川親方の意向だったのかどうかは自分には分からないし、その後確認もしなかった。
 恵津子は当時部屋で生活していたわけではないし、たまに母親に付いて部屋に来たのをちらっと見るぐらいだった。まだ短大だかに行っている学生でもあったので、私にはいいも悪いも分からなかった。
 何か月がたって、田子ノ浦さんに、
「あの話、どうだい」
 と言われた。ちょうどそのころ恵津子の方も親に言われている時期ではなかったのだろうか。恵津子は、
「お父さんの眼鏡にかなった人だったら、私は任せます」
 とか、格好のいい事を言ったらしい。私は任せるわけにはいかないから、その時は、
「まあ、その方向で考えてみる」
 と田子ノ浦さんに答えたけれど、特に気が進んでいたわけではなかった。私は二十四の終わりぐらいでまだ年も若すぎると思っていたし、はっきりと気持が固まっていなかったのだ。
 向こうは姉妹二入。妹が居て、今はもう亡くなったけれど、当時十五歳ぐらいだったが、体が弱かった。両親は 病弱の妹をとてもかわいがっていて、その子を中心に回っているような家庭だった。
病弱な妹が居たこともあったせいだろうか、今の女房がまだ小学校に通っていた時、友人に体の悪い子が居て、その子を誘って、一年かそこら手を貸して学校へ連れて行ってやったらしい。卒業の時期にその子の親がお礼に来て初めて分かったということだ。大変格好いい話なので作り話でも言っているのかと思ったけれど、本当のことだった。そんないい性格をしている子なら結婚してもいいかなと思っているうちに、周囲から、
「とりあえず一度本人に会ってくれ」
 と言われた。
 初めて会ったのは女房が白百合の短大を卒業したばかりのころだったと思う。最初は何人かで飯を食べに行った。田子ノ浦さんも立ち会っていた。
 ところがいつの間にか周りがパーッと居なくなってしまった。二人だけになってしまってお互いに話もなくて、
「みんな居ないのかな」
 とか、
「みんなどこへ行ってしまったんでしょうね」
 なんて言っていた。
 それがきっかけで何度か会ったり、食事に行ったりしているうちに、はっきりと一緒になってもいいなと思うようになった。
 親に相談したら、
「お前がそうだったらいいじゃないか」
 と言う。おやじは、
「向こうに跡取りが居ないのだったら、養子でもしょうがないじゃないか。お前が跡取りになって、ちゃんと家を守って行かにゃいかんぞ。妹さんは体が悪いのだし、お前が養子になって、きちっと家を継いで絶やさないようにしていかないといかん。大事なことじゃないか」
 と筋道を立てて言われた。
 そんなことで二人の結婚話はトントン拍子に進んだ。
 三十七年九州場所の前だったか、福岡県の二日市温泉に両親に来てもらって、九州の後援会長の瓦林潔さんと田口一幸さんに仲人の代理となってもらって結納を交わした。
 年が明けて大阪の春場所、腰を痛めて途中休場して入院したとき、病院に恵津子が見舞いに来て、新聞で報道されたが、その時は既に結納を交わした後で挙式も間近だった。
 二人の結婚式と披露宴は、四月二十七日、帝国ホテルで行われた。媒酌の労をとってくださったのは、日本精工社長の今里広記さん夫妻と、山一証券社長の大神一さん夫妻で、いずれも長崎県入であった。
 結婚と同時に私は市川家の養子に入って、佐々田姓から市川姓に変わった。新居は千葉県市川にあった親方の屋敷の中に構えた。女房は最初は相撲の世界のことは何も知らなかった。現役の時はそれがかえって良かったのだろう。今年で結婚三十年になるが、部屋のことでも、私自身のことでも、よくここまで頑張って来てくれたと感謝している。

(十五)

 三十八年三月場所を途中休場、四月に挙式した私は、五月場所から佐田乃山照也と改名した。この場所初日から黒星を喫し、三日目にも負けて苦しいスタートとなったが、結局十一勝を挙げて一応立ち直った。
 続く名古屋場所は初日から十二連勝した。しかし十三日目豊山、十四日目大鵬と大型力士に連敗して、千秋楽、十三勝一敗の北葉山と対戦した。この一番は左四つ外掛けで北葉山を下して十三勝二敗の同成績となり、優勝決定戦に持ち込んだ。私は北葉山には大体分がよかったが、決定戦で不覚をとり優勝を逃した。低く当って来た北葉山に一気に西土俵に寄り切られてしまったのだ。
 北葉山は時間一杯での待ったが多かった。ところがこの一番は待ったせずに立って来た。私が待ったを予期していたところへ相手が一度で立って来たのが敗因ではないかと言われたが、私としては「待った」があると考えていたわけではない。大関どうしだし、結局弱いから負けたのだ。何か心の緩み、本割りで勝ってほっとして、優勝だなという欲が浮かんだから駄目だったのかもしれない。こっちにはこれは私のものだという油断があり、向こうは無心で来るし、勝負の世界とはそういうものだ。
 一番がっかりしたのはおやじで、帰ったら怒られてしまった。
「お前の相撲は何ていうことだ」
 と。決定戦であんなだらしない相撲を取ったのだから、怒られたのも当然だ。
 ここで優勝を逸した後一年ほどは低迷が続いた。
 三十九年になってしこ名を元の佐田の山晋松に戻した。一月場所初日から九連勝して元気だったが、十一日目の柏戸戦で寄り倒された時みぞおちの剣状突起を骨折して翌日から休場した。
その場所栃ノ海さんが横綱に昇進した.大関になったのは私の方が一場所早かったが、横綱は栃ノ海さんに先を越された。
 その年の九月、十一月と続けて十三勝を挙げたが、いずれも大鵬さんに敗れて優勝出来なかった。大鵬さんの壁は厚かった。十三勝、十三勝でも優勝していないのだから当たり前のことだけれど、九州場所で横綱問題が話題になるかも分からんから、一応用意しておけと言われ、宿舎で紋付きを着て大銀杏(いちよう)を結って協会からの使者を待っていた。記者も大分集まっていた。
 そうしたら「見送りになりました」。記者連中もみんなコソコソ帰って、私もコソコソ……。あれは照れ臭かった。
 明けて四十年一月場所、部屋別総当たり制が実施され、栃ノ海、栃光と顔を合わせることになった。
「これで佐田の山は非常に苦しくなり、横綱はまた駄目だろう」
 とみんなが言っていたようだ。ところがその場所、四回目の優勝をして横綱昇進を決めた。
 栃ノ海さんとは四日目に対戦、この相撲は土俵際のうっちゃりで私が勝ったが、今まで同じ釜の飯を食って一緒にけいこしてきた仲だけに、仕切りの間互いに目を合わすことが出来なかった。
 そして七日目まで勝ち続けたが、中日に栃光さんに合って負けた。力を抜いたわけではないんだけれど、うまく取られて力が出なかった。
 十四日目、大鵬さんに負けて二敗となった。十三勝を二場所続けたし、体重も一二九キロまで増えてけいこ場でもまあまあ力はついていると思っていたから、負けるとは思わなかったけれど、やはり大鵬さんに負けたときはショックだった。
 しかし千秋楽、豊山戦で力を出せたのはうれしかった。そのときはそんなに緊張したというほどでもなかったと思うけれども、今考えたら切羽詰まっていた。優勝しなくては横綱に上がれないのだから。最後に自分の相撲で突き出して勝てたのは本当にうれしかった。あれで終わればいい、これで引退、すごろくみたいに到着点に来て"上がり"だったらいい
けれど、そういう訳にはいかない。
 横綱に上がるのも難しいのかもしれないけれど、後で振り返ってみれば上がる時は意外と緊張感はなかったような気がする。本当は人に言えないぐらいものすごく緊張していたのだろうが、やはり挑戦している方が、活気があるし、気持は攻撃的でいいものだ。先人に追いつくのはやさしいけれど、守って行く難しさというのは大変なものだ。横綱に上がってから後の大変さ、苦しさがあったものだから、今思い出すと上がる時の緊張感が薄くなっていると言えるのかもしれない。
 横綱土俵入りは前の春日野親方、栃錦関に習った。ああいうのは私は照れ臭くて駄目だ。緊張して手と足も一緒に出して歩いたりして座敷に居る関係者たちに笑われた。
 新大関の時もそうだったが、横綱になってもすぐ故郷へ帰ってはいない。一月に横綱になって、有川へ帰ったのは十一月場所が終わってから。その時優勝したからでなく、五島で巡業があったので、その機会に帰ったわけだ。パレードといってもオープンカーもなくて、トラックに乗せられた。そのトラックに造花かなにかが飾ってあったように思う。  母校の小学校に行って、皆に拍手で迎えられて、
「応援ありがとうございました」
 とあいさつして終わりだ。
 母親は喜んでいたんだろうけれど、バタバタしていたから、ゆっくり話す暇もあまりなかった。体に気をつけろと言われたぐらいだ。
 ただ、おやじは喜んでいた。それで私も、
「どうだ親孝行だろう」
 なんて生意気に言ったら、
「何言ってるんだ。親不孝だ」
 と言われた。
「勝ったらお陰さんでと頭を下げて、負けたと言われたら済みませんと頭を下げて歩かんといかん。お前ぐらい親不孝はない」
 おやじは内心うれしかったんだろうけれど、そんなことを言っていた。大体ふだん頭を下げたりする男ではなかったので、あるいは本当にそう思ったのかも分からんけれど……。