【第八回】克己 出羽海智敬自伝

出羽海部屋 背景色

(二十二)

 引退披露と断髪式は夏場所後の六月二日、国技館で行われた。その場所は大鵬さん、柏戸さんが共にけがのため休場していたので、最後の土俵入りはふだん同様、部屋の海乃山と福の花が太刀持ち、露払いを務めてくれた。
 断髪式では部屋の後援会長だった今里広記さんをはじめ八十人を超す関係者にはさみを入れてもらった。最後に師匠の武蔵川親方が止めばさみを入れてくれたときは、さすがに感無量だった。
 辞めて一年か二年かそこらのとき、まだ役員になる以前で、ただの委員だったのに、当時巡業部長だった元大ノ海の花籠さんから巡業に出てくれと言われた。私はけいこの監督ということで巡業に行かされて一年ぐらいやったことがあった。
 花籠さんはなかなか面白い人で、「お前に任せるんだから」と言って、けいこ場には出て来ない。だから巡業中自分一人でけいこの監督をしなければいけない。その間力士がけいこを怠ければ、説教もしなければいかん。私は自分の部屋ではあまり言わないほうなのに、巡業ではいろいろ注意をした。
 花籠さんは、「出羽海君、いい物を食わしてやるからな」などと言って、自分からちゃんこを作る。あの人の弟子の育て方は、部屋でもそうだったらしい。けいこについてガミガミ言うよりも、漬け物を漬けたりしながら、「おれの漬け物はこんなにうまいんだぞ」とか言っていたそうだ。そういう花籠さんの姿をあの時巡業先でかいま見た。
 ちゃんこを食べていると、「これはおれが作ったんだ。どうだ、うまいだろう」
「はい、うまいです」
 実際、本当にうまいんだ。
 私はどこかの巡業先でイカを食べ過ぎてダウンしたことがある。イカは好物で目がないものだから、松前イカをどんぶり三杯ぐらい刺身でガバガバ食べた。そうしたら、下痢してダウン、やむなくけいこの監督を花籠さんに頼んだ。
「そうか、じゃあ、わしが行こう。今日はわしがけいこを見てやるわ。お前は寝ておけ」
 一日だけで二日目に治ったら、花籠さんはもうけいこは見に来ない。一切私に任せる。そんな人だった。
 これが後になって昭和五十五年に巡業部長を引き受けた時のためにいい勉強になった。
 四十七年監事に推され、審判部副部長となり、そのとき役員待遇に抜てきされて、同じ審判部副部長になった二子山さんとともに、部長の元朝潮の高砂さんを補佐して、三人が交代で正面に座ることになった。
 四十九年には岳父の武蔵川理事長が定年を迎え、春日野さんにバトンタッチされた。おやじは相談役となり、私は一門から理事に推され、審判部長になった。
 五十一年には地方場所担当になり、四年間名古屋場所担当を経験、五十五年巡業部長に代わった。巡業部長はたった一期二年で、五十七年から在京に入ることになった。
 巡業部長在任二年というのはちょっと短かった。巡業については改革したいこともたくさんあった。しかし巡業部だけでいろいろなことが出来るわけでもないし、わずか二年間ということもあって、今考えるとなかなか難しい問題だった。
 最初の一年は新米だし、下の者のけいこも見たいと思って、巡業に出ると六時前に起きるのを日課にしていた。
 巡業部長になった当初は、何でも見ておかなければいけないのではないかと思っていた。山げいこも見て回りたかったが、土俵を終わってからではそういうわけにもいかない。部長として 金銭面のこともあるし、ずっとけいこに付きっ切りということも出来なかったけれど……。
 巡業というのは一面では相撲の普及、PRみたいなこともあるが、何よりも大切なのはけいこ。果たしてけいこが十分やれているのかどうか。若い者はちゃんこなんかに追われたり、時間がなかったりして、巡業というのは大変なんだなと思った。
 やる者はやっているけれども、みんながやる気を出してやろうとすれば、関取衆が六十人以上も居るのだから、理屈ではやれなくなる。その辺がジレンマだ。
「けいこせいよ」と怒っているけれども、土俵が一つだと全員が土俵に集まって来たら、けいこ出来るものではない。出来ない者が居てうまくいっているようなところもある。
 経済面で言えば、日当を上げてもらうとか、巡業に行った者を中心に小遣い的なものを多少でも多く渡せるようにしたり、そういうことも必要だと思った。
 でもそれは小手先のこと。力士は協会の宝なのだから、その財産をつぶしてしまうような過酷なスケジュールで巡業をするわけにはいかない。
 しかし、地方の勧進元や世話人とのつながりの問題もあるし、楽しみにしている人も多いのだから、巡業を全くやめてしまうわけにはいかない。巡業にはいろいろまだ問題を残している。時代にそぐわないものもあるので、改善することが必要だ。今、巡業部長とも相談しながら、日数を減らして、内容の充実した巡業がやれるような方向で対策を立てているところだ。

(二十三)

 五十七年に在京に入ることになった。当時の在京には一足先に前理事長の二子山さんが入り、伊勢ノ海さんと武隈さんが居たのだが、定年を迎える伊勢ノ海さんが辞めて、そこに時津風さんと私に入るように言われた。
 最初春日野さんから話が来た時は、「いや、あまり自信もないし、自分は伊勢ノ海さんの後みたいな仕事が出来るタイプではないから駄目だと思います。それに巡業部も二年ではちょっと足りないような感じがしますので……」
 と言うと、それを春日野さんは私に断られたと取ったのだろう。春日野さんが武蔵川親方に言ったのだろうか。武蔵川親方が、
「春日野さんが出羽海君に断られたけれど、是非お願いしたいと言っている。そんなに巡業部が好きか。これから在京でやることが、それ以上に大事なことだから、春日野さんの下でやったらどうだ」  と言うので、
「分かりました。一生懸命やります」
と、武蔵川親方を通じて返事をした。 その当時は新国技館を造るということで、春日野親方は非常に情熱を燃やしていた。その入の下で小使い役をやれたのは、私にとって大きかったと思う。
 春日野さんは大変人望のある、徳のある人だった。協会では本当に温厚で、怒ったりしたのは見たことがない。よく「仏の春日野」と言われていた。
 だが部屋のけいこ場では「鬼の春日野」で、年中怒ったり、どなったりしていた。
 春日野さんはなかなか仕事熱心で、他人の意見も聞き、自分でもよく勉強していた。国技館の建設にあたっては、建設審査委員会を作って、建築家の方はもとより、音響効果にしても、美観的なことにしても、それぞれ専門家の方々七人に集まってもらって、いろいろなアドバイスを受けながらやっていた。
 そして絶えずこれでいいのか、いいのかとなかなか決断しない、慎重であったが、決めるときは自分で信念を持って決断した。方向は決まっていても、もう一回確認のために外部の意見を聞いたりすることもあったのではなかろうか。
 春日野さんはとにかく相撲に非常に情熱を傾けて、国技館を建てることにそのすべてをかけたような感じになっていた。また、土俵の充実とか美しさということに関しても熱心で、自ら土俵に下りて指導していた。春日野さんの相撲にかける情熱というのはすばらしかった。
 在京に入って私は最初指導普及部長になった。春日野さんの時代に、わんぱく相撲とか夏休みの部屋開放とか、そういったほうに力を入れ出していた。
 私はアマチュアの相撲連盟と協力して相撲の底辺の拡大に努めた。
 春日野さんの力で草津に相撲研修道場が出来て、小、中、高校の教員の方など相撲の指導者を集めて研修会を開催したり、全国で「少年相撲教室」を開いたりしているが、まだまだ底辺がグーっと拡大というまでにはいかないけれど、徐々に根が張り出してきたのではないかと思う。これは十年、二十年と将来を見据えて、長い年月をかけてコツコツやっていかなければならない。
 国技館が完成する前、春日野理事長が病気で入院がちだつたので、私は二子山前理事長と一緒に、立ち合いの正常化に着手した。日体大の石川喜八先生という動作学の先生のところに、出羽の花とか佐田の海を連れて行って、なぜ立ち合いに手を付いたほうがいいのかというデータ的なものを出してもらったりして、力士の研修会で指導した。それから立ち合いが少しいいほうに向かった。もう一歩だが、大分良くなったのではないか。二子山理事長になってから立ち合いの”待った”に制裁金を科することが断行された。
 前理事長の二子山さんは一口で言うと強い人だ。大横綱で、あの小さい体で相撲も強かったし、信念もあった。理事長が四年間という短い期間だったせいもあるだろうが、すべてを土俵の充実ということにかけたといっていいのではないか。  前理事長は割りとさっぱりした人で、私は下に居て仕事はやりやすかった。
「あんたに任せたよ」と言うと、一切ロは出さない。
「ちょっと君、やってくれないか」と任されると後で部分的に報告したり聞いたりするけれど、任すと言ったら何も言わない人だった。ブラジルに行った時でも、ロンドン公演の時もそうだった。
 私は執行部に入って、春日野、二子山と二人の理事長に仕えたが、春日野さんの人徳、二子山さんの強い決断力と、いずれも私にはいい勉強になった。協会としてもいい時機を得ていたのではなかろうか。入徳で入れ物を造って……、もちろん春日野さんも土俵のことに力を入れていたけれども……、そこにまた更に厳しく、美しい土俵を目指す、決断力のある怖い理事長が出たから、大変良かったと思う。何より土俵が締まった。これは二人の理事長の偉大な功績だ。土俵がすべての原動力、相撲は土俵を中心に回るのだから……。

(二十四)

 平成四年二月、二子山理事長の後を受けて理事長に互選された。私が理事長に就任したときは、二百日も満員が続き、相撲の内容はいいし、若手も伸びて来て、大変な相撲ブームを迎えていた。
 これは先輩の力士、親方など先人がいろいろと苦労を重ねてここまでもってきて、最後の仕上げに二子山さんが新機軸を打ち出して土俵の充実を図った、それが花開いたのである。そこへ私のところへお鉢が回って来た形になったのだから、私としては非常に責任が重大だった。
 満員続きでうれしいと思う反面、私はどちらかというと貧乏症なものだから、ぜいたくな言い方だが、ここまで来ないうちのほうが良かったかななどと思ったりした。
 とにかく一日も長く満月の状態が続くように、相撲の人気の隆盛が続くようにしっかりと守って行きたいと、身の引き締まる思いであった。
 相撲界にはまだいろいろと改革しなくてはいけないこともある。ただ相撲を取り巻く状況がいいだけにあまりいじってはいかんという気持もある。決して何もやらないということではなく、いじりすぎて今せっかくいい花が開いているので新鮮な水をやるぐらいにしておかないと、壊してしまってもいかんのではないか。
 土俵の充実 ― 立ち合いの正常化と相撲内容の向上は、前理事長の路線を踏襲し、更に強化していくことが必要だ。
 それと力士のマナーの問題がある。もちろん激しい、迫力のある、スピーディーな相撲を取っていかなければいかんが、相撲はただ勝てばいいというものではない。やはり土俵上のマナーというものも大切だ。
 亡くなった玉ノ海さんがよく言っていたけれども、力士は紳士でないといかん。立ち上がったら、動物的に、野性味たっぷりに動く、規則で許されるギリギリの範囲でガンガン戦っていかなければいかん。しかし相撲が終われば紳士に返る。そういうことは絶対に守っていかなければいけない。相撲には日本古来の伝統美というか、様式美的なものもあって、それをきちっと守って、後世に伝えていくことが大切だ。
 平成三年夏、新国技館を支えてきた”小さな大横綱”千代の富士が引退した。その後続いて大乃国、旭富士、北勝海も相次いで辞め、一時は横綱不在となった。しかし、曙、貴ノ花、若ノ花はじめ若手力士が台頭し、私が理事長になってからも、相撲人気は以前にも勝るほど上昇した。そして昨年一月、若手の中から曙が横綱に昇進した。曙は今や立派に角界の屋台骨を支える存在に成長した。
 私は一期目の二年間はこれまでの路線を踏襲して人事の面でもほとんどいじらないでやってきた。今年二期目に入って武蔵川と九重を役員待遇に抜てきするなど若手を登用して入事の刷新を行った。特に若手には早く仕事を覚えてもらいたいと思っている。
 最近勝負判定の面でいろいろと注目を浴びることが多かったので、審判部の強化に重点を置き、審判委員を半数近く入れ替えた。ベテランと新人がうまく刺激し合って間違いのない裁きをしてくれるものと期待している。
 また広報部を新設して、マスコミ全般に対応するとともに、広く一般にも相撲のPRを行い、著作権、肖像権の問題にも対処して行く。広報部の活動はまだ模索の段階だが、陣幕、放駒を起用して徐々に仕事を広げて行くつもりだ。
 協会職員もこれまでは縁故採用ばかりだったが、今年から各大学に推薦をお願いして、採用試験を行って大学卒の新人を採用、業務の合理化、近代化を推し進めて行きたい。
 繰り返しになるが、力士が何よりも協会の財産だ。だから、これからの施策の重点は何より力士の待遇をよくし、生活環境を改善することだ。待遇改善、優勝、三賞賞金のアップや巡業の再検討も、すべてこの観点から打ち出したものである。
 世間一般が不況というのに、ありがたいことに大相撲は大変な人気で、本場所は連日満員続き、ファンの方が切符を手に入れるのに苦労されている状況である。ファンの皆さんには本当に感謝している。我々としてはファンの皆さんの御支持にこたえて、内容のあるいい相撲をお見せすることに努めなければならない。そして一日でも長くこの満月の状態が続くようにして、我が国の伝統文化である大相撲を、よりよい形で次の世代に継承していくのが私の責務であると考える。
 私はさして能力があるというわけでもないのに、現役時代には先輩のよき指導で横綱にまでなり、引退後も推されて理事長の要職に就いた。私は現役のころは一生懸命やらないと勝てなかった。辞めて年寄になってからも、毎日毎日を精一杯生きている。
 私はあまり書を書かないが、頼まれると「忍」とか「忍耐」という字を書く。しかし自分の半生が苦労の連続だったとは思っていない。もともと私は父親譲りのせいかのん気で楽天的なのだろう。自分でいい、幸せな人生だと思っている。
 これからも相撲を通じて日本人が忘れかけている日本の立派な文化を担って行きたい、というのが私の念願である。